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存在意義

【白井寿昭】感謝(ダンスパートナー)

この記事を書いた人

広島県出身。厩務員、調教助手を経て1978年に調教師免許を取得した。相馬眼で『白井最強伝説』として広く親しまれている。通算795勝(中央775勝、地方・海外20勝、重賞42勝)

[第1章]血を追い求めて(ダンスパートナー編)

その小柄な馬体に、血統をなにより大切にする私の信念を詰め込み、白井厩舎に初のGIタイトルをプレゼントしてくれたダンスパートナー。
彼女は私が管理した多くの馬の中でも、特に思い出の深い1頭だ。

多くのことを彼女と経験し、多くのことを彼女から学ばせてもらった。
鋭い末脚を武器に、ファンを魅了したダンスパートナーだが、彼女の秘められた物語は、華やかだった競走生活とは別のところにもある。

今回は、そんな彼女の物語を話してみたいと思う。

・競走馬との出会い

競走馬との出会い──。
競馬ファンの多くは、2歳のデビュー戦がそれにあたるだろうし、一口オーナーと呼ばれる愛馬会などに出資されている方々は、もう少し前のタイミングかもしれない。

調教師といってもタイプは様々。
頼まれた馬だけを預かる調教師もいるが、牧場に足を運び、自分の目を信じて馬を探す私は違う。

私と競走馬との出会いは、彼らがこの世に生まれ落ちた瞬間、もしくは、その数週間後。
ゆえに競走馬がデビューする時には、彼らとの間に2年もの下地が、すでにあるわけだ。

新馬戦のパドックは、将来への期待だけでなく、無事にデビューの日を迎えたことへの感慨──。
そんな思いを私は常に感じていた。

・出発点はアメリカ

ダンスパートナーのデビュー戦は特に感慨深いものだった。

彼女の能力が突出していたから?
もちろん、それも理由のひとつではある。
しかし、最大の理由は、デビューに至るまでの年月。

ダンスパートナーが誕生したのは1992年だが、私と彼女との出会い──いや、これは縁と表現すべきだろうか。
1989年秋、ケンタッキーで行われた繁殖セール。
この場所こそが、私と彼女の出発点だ。

彼女が生まれる2年半も前から、私は彼女の誕生を待ちわびていた。

社台ファームの吉田善哉さんが「この馬だけは絶対に落とせ」と号令をかけていた馬。
その馬こそが、ダンスパートナーの母となるダンシングキイという馬だった。

彼女の父は英国三冠馬のニジンスキー。
吉田善哉さんが、競走生活のないダンシングキイの購入を決めた理由──。
それはこの血統背景にある、と私は考えていたのだが、私がこの馬に注目していた理由も、実はそれだった。

これまでに多くのノーザンダンサー系種牡馬を実際に見てきた。
ダンジグ、リファール、ヌレイエフ。
実績を残す大種牡馬ばかりだ。
だが、私のナンバー1は常にニジンスキー。
超がつくほどの大きな馬体、その馬体にふさわしいダイナミックな走り。
これに私は魅了されていた。

母父マルゼンスキーのような馬が、私の厩舎には数多く在籍していたが、これは私がニジンスキーの血を私が求めていたからこそ。
ニジンスキーの影響が特に色濃く出た馬が、マルゼンスキーだった。

社台ファームがダンシングキイを購入。
彼女の子が日本で走る可能性を感じ、アメリカの地で私の心は躍る。
日本へと渡った彼女に、交配されたのはなんとサンデーサイレンス。
この話を聞いた時に、私は不思議な縁を感じた。

日本の競馬地図を塗り替えた大種牡馬のレースを、私は実際に現地で2回ほど見ている。
1回目は三冠最終戦のベルモントS。
イージーゴアに8馬身差で負けてしまったレースだ。

だが、すでに私はこの時点で「種牡馬として成功するのはサンデーサイレンス。血統は地味だし、飛節も少し折れているが、それに目をつぶっていいほどの体のしなやかさを、この馬は持っている。ゆえにコーナーでのスピードが落ちない。この馬の豊富なスピードは、種牡馬として成功するために必要なもの」と判断していた。

それこそ、ダンシングキイがセールに上場された前の週の話。
ブリダーズカップクラシックを制した彼の姿を、実際にこの目で見ることができた。
考えていたとおりの馬だ。
そう感じた。

あのサンデーサイレンスが日本にやって来る──。
このニュースを聞いた時の私の反応は、おそらく他の競馬関係者と違うものだろう。

「サンデーを購入したのは社台。ならば、ダンシングキイが交配されるかもしれない」
1989年秋。
あの日、あの瞬間にアメリカにいたからこそ、私はダンスパートナーという馬に興味を持ったのだ。

[第2章]積み上げられる課題 オークス制覇への道のり

・体質の弱さがネックに

誕生を待ち望んだダンスパートナーだが、初めて見た彼女の馬体は、お世辞にも見栄えのするものではなかった。

「これだけ細身の馬では…」と思ったのは事実。
しかし、彼女は5月25日の遅生まれ。
脚元に問題がないのであれば、いずれは血統の良さが出てくるはずだ──。

当歳時の見た目よりも、彼女の中に流れる偉大な〝血〟を私は優先した。

だが、ダンスパートナーは成長が遅いだけでなく、体質も弱かった。
年内のデビューをさせることができず、結果的に彼女は、年明けの小倉でデビューすることになる。
年明けの京都は、すでにダートがメインの番組構成になっており、芝は1200mしかない。
出遅れる可能性が大きい彼女の適性を考え、前残りの多い京都を避け、差しも可能なコース形状になっている小倉を選択したわけだ。

予想通りというか、このレースのダンスパートナーはスタートで出遅れた。
しかし、直線だけでそのビハインドを跳ね返してみせた。
「さすがは良血馬」
そう思った私は、ダンスパートナーの次走に自己条件のレースではなく、オープンのエルフィンSを選んだ。

・血の力が目覚める

レース当日の馬体重は、前走から10キロ減の422キロだった。

体質の強くない牝馬を小倉へと運び、詰まった日程で2走目に出走させる──。
このレースへの出走を決めたときから、この程度の体重減は頭に入れていた。

「あえて厳しい状況を用意した。この1戦の内容次第で、GIで通用する馬かどうかがわかるな」

結果は勝ったシェイクハンドから0秒1差の2着。
勝つことこそできなかったものの、直線で猛然と襲いかかったダンスパートナーの姿に、彼女の中に眠る〝良血〟の底力を改めて感じる。
私はGI制覇を強く意識した。

「この馬ならGIを勝てる」

・浮き彫りになった課題

私は次走のチューリップ賞から、武豊騎手にその手綱を託した。
馬の能力はもちろんだが、GIというハイレベルの舞台では、名手と呼ばれる騎手の力も必要になる。
彼を鞍上に迎えることで、GI制覇の可能性をさらに高めたい──。
そう思ったわけだ。

しかし、ハナ差に負けたチューリップ賞に続き、桜花賞でもクビ差の2着に惜敗してしまう。

阪神淡路大震災の影響により、追い込みにくい京都に開催場所が変わっていた不運もあった。
通常通りの阪神開催であれば、どちらのレースも差し切っていたはず。
だからこそ、私は悔しかった。

2着惜敗の理由は出遅れ癖が敗因。
GIを勝つためには、彼女をまともな競走馬にしなければならない──。

私はダンスパートナーをゲートに縛りつける決断をする。

当時はゲートに馬を縛り付けること自体が少なく、ダンスパートナーのような一流馬ならなおのこと。
それでも、能力で負けてない彼女の惜敗が、私は許せなかった。

ときには30分もゲートに縛りつける。
辛かったと思う。
ゲート内で暴れることが何度もあった。
時には叫ぶことさえも。
しかし、私は心を鬼にし、ダンスパートナーに我慢を求めた。

悪癖は取り除かなければならない。
他馬と五分に戦える馬にしなければならない。
それが調教師としての大事な使命。
私はそう信じ、信念を貫き通した。
その強き思い──。
これこそがダンスパートナーをオークス馬へと導いたのだ、と現在も私はそう考えている。

・不安一掃、いよいよオークスへ

もちろん、ゲート難を克服できたのは、ダンスパートナー自身が頑張ってくれたからこそ。
桜花賞の2着で、オークスへの出走権を確保。
レースまで1カ月以上の時間をもらえたのも、かなり大きかった。
当初は抵抗ばかりしていた彼女が、ゲート内で我慢することを覚えていく。

オークスが行われる週には、体調の管理のみを考えた調整に。
この頃、すでにゲート練習はしていなかった。
エルフィンSの時と同じだ。
彼女の強い精神力が厳しい状況を克服。
彼女の中に流れる〝良血〟の底力を、私は再び知ることとなった。

迎えたオークス。
好スタートとは言わないまでも、致命傷にならない程度のスタートを切ったダンスパートナーの姿を見て、私は好勝負を確信した。

レースは思った通りの展開で進む。
東京競馬場の長い直線。
素晴らしい末脚で彼女は駆け上がってきた。
勝ち時計は、翌週の日本ダービーでタヤスツヨシがマークした2分27秒3よりも速い2分26秒7。
この勝利で私は決めた。
「この馬は牡馬相手でも十分に足りるな。よし、秋は菊花賞を使ったる」

[第3章]フランス遠征の真実

・遠征計画のスタート

オーナーサイドからフランス遠征の打診を受けたのは、オークス制覇からしばらくたってのことだった。

牝馬限定のGI競走で、凱旋門賞の主要な前哨戦のひとつに位置付けられているヴェルメイユ賞。
このレースをまずは最大目標にする。
その後のことはヴェルメイユ賞の結果次第で……という話だった。

ダンスパートナーの受け入れ先、前哨戦の選択など、メニューのすべてを決めたのもオーナーサイド。
当時の私は、海外の血統やセールなどには詳しかったものの、海外競馬で戦うための知識と経験を持っていなかった。
結果、オーナーサイド主導の遠征に対し、首を縦に振ったわけだ。

受け入れ先として候補に挙がっていたのは、フランスの名門として知られるアンドレ・ファーブル厩舎。
当初は私も「いい選択だな」と思った。
しかし、彼は「進上金も含めたすべての収入を自分に」と。
このひと言で、彼との話は流れることになる。

フランスの賞金は、日本のそれと比較にならないほど安い。
オーナーサイドだけでなく、管理する私も名誉のみを求めての遠征。
私らはそれでも構わない。
しかし、帯同している厩務員にまで、2カ月も無収入の仕事をさせることはできなかった。

実際、厩務員組合でも「そういうことをするなら、社台グループの移動を禁止する」と問題視されることに。
結果、ダンスパートナーはファーブル厩舎ではなく、コリーヌ・バルブ厩舎で受け入れてもらうことになった。

この程度のことは些細なことだ──。
当時はそう思っていた。
しかし、わずかに狂ってしまった歯車が、のちに大きな影響を及ぼしていくことになる。

・敵の懐の中に

1995年7月25日。
美浦トレセンでの検疫を終え、ダンスパートナーはフランスへと旅立っていった。

長い輸送にも耐え、フランスでの状態もまずまず良好。
4頭立ての3番人気という低評価で挑んだ前哨戦のノネット賞だったが、結果はハナ差の2着。
「これなら」と本番のヴェルメイユ賞に向け、私は確かな手応えを感じる。

しかし、結果的にこの1戦が良くなかった。

競馬後進国の日本から来たというだけでなく、ダンスパートナー自身が見栄えの良くない馬だったこともあったと思う。
実際、ノネット賞を走る前のダンスパートナーに対し、周囲の雰囲気は完全なノーマーク。
だが、ノネット賞の結果に「ちょっと違う馬が来ているぞ」という状況に、変化してしまった。
それは受け入れ先のバルブ厩舎も同様。
いや、最も大事な受け入れ厩舎の対応が、最も変わってしまったのだ。

バルブ厩舎にはフランスオークス馬のカーリング(のちに社台グループが購入し、ローエングリンの母となる)が在籍していた。
彼女の目標もダンスパートナーと同じヴェルメイユ賞。

最大の敵はこの馬かもしれない──。

彼女をライバルと認めたバルブ厩舎は、我々が厩舎に入り、ダンスパートナーに関与することを禁止するようになる。

私のスタッフはダンスパートナーに会うことも許されず、飼い葉を与えることさえも、我々の仕事ではなくなってしまった。
ダンスパートナーがどんな状況でいるのか?
それもわからない。

敵の懐に入ってしまったことが、この遠征のなによりの失敗だった。

・悔いの残る敗戦

前哨戦を使わず、ヴェルメイユ賞に直行すべきだったかもしれない──。
そう考えることが、現在でもある。

牡馬ならひと叩きは必要。
外国の競馬を経験することも財産になるだろう。
だが、ノネット賞がそうだったように、小柄なダンスパートナーは、いきなりの実戦でも、走れる可能性があった。
調整も自由にさせてもらえたかもしれない。

ヴェルメイユ賞は他馬のマークも厳しかった。
当時、日本によく来ていたオリビエ・ペリエ騎手。
彼は日本馬のレベルの高さを把握しており、ダンスパートナーが強敵であることを十分に理解していた。

直線入り口。
ギアを上げる瞬間にほんの少しだけ閉められてしまった。
もしも、あそこがスムーズだったなら…。
このレースの結果は6着。

ダンスパートナーのキャリアの中で、悔いの残る唯一のレース・ヴェルメイユ賞はこうして幕を閉じた。

[第4章]新たなる挑戦

・帰国初戦は菊花賞

海外遠征をするためのシステムが確立し、また日本馬の地位が向上したことにより、遠征先の待遇も格段に向上。
もちろん、輸送や慣れない環境への適応力など、馬自身が克服しなければならない問題が残っているとはいえ、日本とさほど変わらない状況に馬を置けることになった現在を羨ましく思うことがある。

なにせ、ダンスパートナーをフランスに送った1995年。
この基本的なことを、私たちはできなかったのだから。

ヴェルメイユ賞は6着。
フランス遠征から戻ったダンスパートナーの状態を確認した私は、秋の国内初戦に菊花賞を選択する。

オークスの勝ち時計が翌週に行われたダービーのそれよりも速かったことが理由のひとつ。
春の段階から菊花賞参戦を考えていたことは、すでに述べたとおりだ。
もうひとつの理由は「翌年からエリザベス女王杯が解放される」。
そんな噂を聞いたからだった。

「エリザベス女王杯は来年でも勝てる。菊花賞に出走できるのは3歳馬の今年のみです。今年は菊花賞に行きましょうよ」

オーナーサイドは私の意見を尊重し、菊花賞への出走を許可してくれた。
もちろん、この瞬間の私はガッツポーズ。
しかし、この決断により、私は必要のないプレッシャーを、自分で背負い込むことになってしまう。

「菊花賞は大事や。しかし、1年後のエリザベス女王杯。このレースだけはしっかりと勝たせないとあかんな」

菊花賞の結果は5着だった。
勝ち負けするところまでいかず、当初は失敗のように思われた挑戦だったが、優勝したマヤノトップガンの能力が、私の想像を超えていただけの話。
同馬は次走で古馬相手の有馬記念も制覇。
最終的にGIを5勝もする名馬となった。
相手が悪かったのだ。
実際にダービー馬のタヤスツヨシ(6着)には先着を果たし、それなりの面目は保ったと私は思っている。

・目標は1年後

それよりも1年後のエリザベス女王杯。
最大目標とするこのレースに、ダンスパートナーをどう導いていくか──。
すでに私はこのことばかりを考えていた。

ヴィクトリアマイルがまだ施行されていない時代。
古馬牝馬に狙うべき春のGIはなく、そもそもが、中距離志向であった彼女の相手は、必然的にGI級の牡馬へとなっていく。
牡馬相手に連戦連勝できるほど甘くはない。
どれほどの名牝であっても同じだろう。

オークス以降の初勝利となったのは5月のGIII京阪杯。
これが実に1年ぶりの勝利だったわけだが、私は勝てなかった時期も不安を感じたり、ダンスパートナーの能力に疑いを持ったことは一度もなかった。
どのレースも差のない競馬に持ち込み、特に宝塚記念ではマヤノトップガンから0秒3差の3着に善戦。
コースこそ阪神、京都の違いはあるが、距離はエリザベス女王杯と同じ2200mだった。

「この距離なら牡馬のGIとも互角に戦える。牝馬限定GIなら間違いなく好勝負になるはずや」

・表れた変化

秋のエリザベス女王杯に向け、確かな手応えを感じる一方で、私はダンスパートナーの内面に起こっている変化も見逃してなかった。
良家の〝お嬢様〟といった印象のあったダンスパートナーが、牡馬との連戦を経て、我々にも向かってくるような激しい気性の馬へと変貌していたのだ。

「競走馬としてはこれでいい。しかし、繁殖牝馬として考えたときはどうだろうか。戦闘モードに入ってしまった彼女が、はたしていいお母さんになれるのだろうか」

そんな不安が私の脳裏を過ぎる。
父がサンデーサイレンス、母父ニジンスキーという良血馬。
繁殖としての価値、期待はかなり大きかった。
だが、私はこの時点で、すでに繁殖牝馬としてのダンスパートナーの可能性は、あまり高くない──。
そう感じていた。
フェデラリストにロンギングダンサー。
それなりに活躍馬は出した。
だが、それは空胎の期間を何年か設けたあとの話だ。
彼女の精神をリセットするのは簡単ではない。
その予感は、少なからず的中してしまったのだ。

[最終章]1年越しの目標

・目標をクリアするのは簡単ではない。

競馬には狙うべきレースがある。
牡馬ならダービー、牝馬なら桜花賞。
誕生したばかりの子馬を見て、生産者は漠然とこんな夢を描く。
我々の世界も一緒だ。
多くの場合はダービーだが、血統や馬体を見て「こいつは短距離やな。こいつはダート」と狙いを定める。

目標を常に意識しながら──。
しかし、馬の成長や周囲の環境によって目標となるレースは、時に変更することを余儀なくされていく。

それが我々の住む世界。
相手にしているのは競走馬という生き物だ。
機械ではない。
思うようにいかないからこそ、馬の世界に対する私の興味は、尽きることがない。

・公約を達成

エリザベス女王杯を勝つ──。

オーナーサイドに、そう宣言したのはレースの1年も前。
明日のこともわからない競馬の世界を熟知していながら、よくもこんなことを口にしたものだと、現在は思う。

しかし、迎えた1996年のエリザベス女王杯。
ダンスパートナーは見事にこのレースを勝ってくれた。

直線入り口で前をカットされる不利がありながら、それを見事に克服しての勝利。
先に抜け出したヒシアマゾン(2位入線=7着降着)をアタマ差で捕らえたところが、ゴールだった。

・ステップレースの重要性

この勝利の伏線はエリザベス女王杯の1カ月前。
マーベラスサンデーの4着に敗れた京都大賞典にある。

宝塚記念3着から3カ月ぶりの実戦。
ダンスパートナーの馬体重は前走比18キロ増。
エリザベス女王杯を見据え、あえて〝余裕を持たせた仕様〟で出走させたのだ。

京都大賞典の上位4頭はほぼ同じ位置から追い出した。
このレースだけを見れば〝切れ負け〟した格好。
しかし、馬体に余裕のある状態だっただけではなく、出走馬唯一のGI馬だった彼女は、マーベラスサンデーと同じ57キロの斤量も背負っていた。
その状況で勝ち馬から0秒1差。

この敗戦に私はエリザベス女王杯への自信を深めていたのだ。

当日の馬体重は6キロ減。
思ったほどの体重減ではなかったが、見た目は研ぎ澄まされている。
ダンスパートナーのピークはこのレースだったかもしれない。
そう思うことがあるくらいだ。

狙うべくして勝ったレース。
その勝利の喜びは、GI初制覇を飾ったオークスとも並ぶものだった。

・感謝

年が明けた1997年。
ダンスパートナーがレースに勝つことはなかったが、それでも宝塚記念が3着、エリザベス女王杯が2着。
狙いにいったレースでは、まずまずの結果を出してくれた。

彼女のスタートラインを思い出してほしい。

デビューしたのは1月の終わり。
体質の強くない華奢な牝馬で、ゲートも満足に出ることができなかった。
そんな彼女が悪癖を克服し、牡馬相手の大レースの中で力を蓄え、3歳時も古馬になってからもGIを勝った。

なによりも誇りに思うのは、彼女が大きな故障もせず、3年間もメインストリームで走り続けてくれたこと。

私の出した課題を次々にクリアし、私をGIトレーナーにしてくれた馬。
ダンスパートナーと過ごした日々は、現在も私の大きな財産となっている。

(2016年9月執筆)
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