覆面馬主7号のオフレココラム

【覆面7号オフレココラム】「ギャンブル依存症」

今、競馬界で話題のネタに触れてみる。

話題になったのは以下の記事について。

小学生に競馬予想!? NHK「おはよう日本」不見識ぶり

ギャンブルが、「ギャンブル依存症」を生み出してしまう事は事実である。
しかし、ギャンブルを行う全ての人が「ギャンブル依存症になるわけでは無い」というのも事実である。
そして、ギャンブルとギャンブル依存症発生との間にどのような「因果関係」があるのかは、まだ明らかにされていない部分が多いと聞く。

これらの事実を前提に、上記記事に対しての俺なりの考え方を書く。

まず、ここには2つの立場が混在する。

◆「ギャンブル依存症の罹患者に詳しい」人。
◆ギャンブル依存症の存在は知っていても「罹患者にそれ程詳しく無い」人。

俺は、申し訳無いが「詳しくない」方の立場に近いといえる。

この立場である事を明記した上で、書きたいことを書こうと思う。

まず、それぞれの立場について。

◆「ギャンブル依存症の罹患者に詳しい」人。
ギャンブル依存症患者をケアし発生を抑制しようとしている方の視点から見れば、そこに至ってしまった全てのプロセスに依存との相関関係があるように思ってしまうのも分かるし、そういう罹患した患者さんを何人も見てきた人なら「その悲惨さ、凄惨さ」から、そもそも論として「ギャンブルの存在自体を否定」し「ギャンブル=悪」という極論的なバイアスが掛かった見方をしてしまう事は理解できる。

◆ギャンブル依存症の存在は知っていても「罹患者にそれ程詳しく無い」人。
ギャンブル依存症になっていない側、また、回りにそういった人が居ない側が、自らの原体験に基づき「競馬はそんなに悪では無い」「ギャンブルも悪では無い」という意見を言うのはもちろん自由だが、現実世界に「ギャンブル依存症罹患者が居るという事実」から目を背けているとすれば、それも、闇雲に競馬を擁護するだけのバイアスが掛かった意見だと思うわけだ。

そして今。

上記記事の執筆者が、NHKの「おはよう日本」で放映された「競馬場でピクニック」という特集で流された「子供に予想させる」「子供にJRAの職員が馬の見方を教える」という部分に、警鐘を鳴らし、改善を要求した事から端を発し、今競馬関係者界隈でも少し話題になっている事象である。


これは、良くある「平行線」の議論になりやすい状況で、平行線ならいいが「どちら側も相手がおかしい」「相手が間違っている」という議論になりやすい状況が生まれていると思う。


なぜそんな状況が生まれるか?

まず、この話題の発端となっている記事内容が、「いくつかの論点」を混ぜ込んで書かれているところが話をややこしくする。

意図的なのか無意識なのかは分からないが、自分の愛しているものに対して、自分が誇りを持っているものに対して、批判をされたり、自分の行動が結果的に批判されているかの様な状況に遭遇すると、人は「認知的不協和」に陥る事がある。

それが、双方に起きている・・・。

記事執筆者はギャンブル依存症の危険性を訴え続けているわけで、その活動に自負を持っている。だからこそ、「ギャンブルはリスクがあるのにNHKめ、子供を危険に晒しやがってなにやってんだ!」という視点でハレーションが起きている可能性がある。

そして、競馬愛好者側、競馬事業関連従事者にとってみれば、誇りを持った仕事、大好きな趣味に対して、「悪」と言われているような感覚に陥り、「競馬は悪くねーだろ!ふざけんな!」的な視点でハレーションが起こっている感じに見える。

個人的には、

「どっちも言っている事は間違って無いけどね」

という感想であり、なんなら、双方が協力をしなけりゃいけない問題なのに、噛み合わないね、と。

ギャンブル=悪!と言い切る側

そして、それは競馬を愛する側からすれば、自分の人生を否定されたかのように感じ、そんなの極論だ!と反論したくなる。

だから、「競馬」と「馬券」を混同するな!と言ってるのに・・・。

この攻防の意味の無さに、なんだこれは?と思った次第である。

だから、まずは発信者の論点を勝手に整理してみる。

1.子供と競馬の接し方
2.子供と馬券の接し方
3.幼少体験と依存症との相関関係
4.NHKとしてのモラルの基準

大きく分けると上記4つの論点がいくつかクロスオーバーしながら語られていて、さらに、そこに、執筆者の「主観」と、調査結果が根底にありそうな「見解」がないまぜになって書かれていると感じた。

もちろん日本は言論の自由が保障されている国だから何を書こうといいと思う。

仮に「意図的にないまぜで書いている」とすると、それはそれで人を巻き込みやすくする上では「秀逸な炎上技術」だなとも思わされた。

事実、俺もこうして感化されてコラムを書いている。この方がもし無意識でそう書いているなら、元来が論点ずらしの上手い方なのかもしれないし、そういう意味では、論点を整理してみたいと思わされた。

で、この記事での主張は上記したように「大よそ4つ」に分類できるので、それぞれに、俺の意見を書いておこうと思う。

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1.子供と競馬の接し方
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そもそも、この執筆者は「競馬」と「馬券(勝ち馬投票権)」を混同している。

ここが、競馬ファンを「イラっとさせる」原因の一つにもなっている。

だから、馬を見てレースで勝つ馬を予想する=ギャンブルとして捉えられちまってる。
ギャンブルは、金を賭けるもの。そして、そのリスクの対価として1:1以上の対価が得られる可能性のあるもの。

そして、この記事執筆者が言っている「若い時期にギャンブルに接触した人の方が罹患率が高い」というのは、事実だが、だからこそ、競馬と馬券を一緒くたに語っているのは愚行だと考えているのが俺のスタンス。

まぁ、競馬自体は国が税金を徴収する一つのシステムとして認めた馬券(ギャンブル)を内包したコンテンツだから、ある意味ではタバコや酒と変らない立ち居地で扱いたくなるのは分かる。だから、馬券購入には年齢制限がある。

がしかし、その事を「ギャンブル依存症を生み出してはならない」という極論的な視点から、競馬と馬券を混在させた議論にすると、話がややこしくなる。仮に「全てのギャンブルを排除」すれば確かにギャンブル依存症患者は世の中から居なくなるかもしれないが、それはまた、トレードオフの形で別の問題が出てくる。

例えば、失業者。
例えば、闇ギャンブルの増加。

まぁ、人間の本質には「勝ち負け」「優劣」をつけたがる装置が備わっちまってるから、結局「ギャンブル的要素」をこの世からゼロにはできない。そこから派生した一つの病気を見過ごす事はできないが、かといって、そこを中心に全てを悪として捉えるのはおかしな話だ。

つまりは、極論が通用しない問題。

その上で、執筆者は「子供に予想をさせた事」を中心に「ギャンブルを一方向からの視点で紹介するのは如何なものか?」と、言及しているわけだが、ここも論点が定まらない。

「馬券」という「出口」があるから、競馬の予想を子供にさせるのは「けしからん」という事が言いたいのか?

そもそも、対象は何であれ、「子供に勝敗予想をさせる」ということ自体が「けしからん」といいたいのか?

ここら辺が定かでは無い。

ここを整理すると、

まず、「馬券(ギャンブル)」と「競馬(競技)」を混同してはならず、その上で、

◆子供に予想させた「映像を放映したのが問題」で見識を疑っているのか?
→NHKがターゲット

◆そもそも、子供に「予想行為をさせるのが問題」で見識を疑っているのか?
→親がターゲット

どっち?それとも両方?

その辺が、ぐちゃぐちゃになっていて、さらに、競馬と馬券を一緒くたに捉えた認識で、「子供に競馬を見せるのはリスク!」的な事を書いているから、競馬ファンがざわつく。

そもそも、その根拠となっているエビデンスの書類自体「予想/推理行為」ではなく、

「海外の研究データから、若いうちにギャンブルを始めると、ギャンブル依存症になるリスクが高まることがわかっています」

と書いてある。
つまりは、予想行為とギャンブルを混同してブチきれてるわけだよ、この執筆者。

さて、少しは整理できてきたかな。

まずこの論点に対しての意見を言っておくと、俺は今回の事例で注意喚起をしなけりゃならないのは、「親」がターゲットだと思ってる。(※NHKに関しての意見は後述する)

注意喚起では無いかな。
こういう風に教えてあげてね!という具体例が必要だと思ってるわけ。

競馬への触れさせ方、それは「やり方次第」であると俺は思っている。無条件で良し!というつもりは無い。それらの話をしていく。

先日、スポーツBETが合法になるというニュースが駆け巡ったアメリカ。

今後、日本でも起こりうる「スポーツBET」の認可。もしその状況下になった時に、「競技」と「ギャンブル」を切り分けて考えておかないと、野球を見るのも、サッカーを見るのも、その勝敗を予想するのも、応援するのも、ましてや、少年野球や少年サッカーなどのチームに入るのも、すべて「ふさわしくありません!」とでも言うのか、このお方は・・・ということになる。

「競馬と馬券」を混同する事の一例として、極論を書いてみたが、この記事の執筆者は、そういう事を言っている事にまず気づいてほしい。

そういう表現が多いから、良い事を言っていても反感を買う事の方が多くなる。そこが勿体無い。

つまり、「子供が競馬(競技)に接するのは悪く無いだろ!」っていう話であって、「予想行為自体も悪ではない」し、スポーツという勝負事、勝ち負けが付随する物事におけるオーディエンス側の楽しみ方には、「予想や推理がセットの娯楽」であるという真理を無視した意見であり、そこを突然ギャンブルと結びつけるという飛躍した意見になってしまっていると思う。

だから、競馬が悪ではなく

「競馬は、馬券というギャンブルを内包したコンテンツであり、その出口(馬券)があるからこそ、子供を競馬に触れさせる時には、具体的にこういう所に気をつけていただきたい」

と言われれば、俺は「うん、一理あるよね」と同意できる。

ただ、何も具体的な話が無い。
ただただ、「子供に競馬の予想させるなんてリスクよ!」と、ヒステリックに言っているだけに見えてしまうのは、折角の場なのに「具体例」を示さないからじゃないのか?

そこに、俺も、イラっとした事は事実。

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2.子供と馬券(ギャンブル)の接し方
3.幼少体験と依存症との相関関係
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これは、ちゃんと考えなきゃいかん。
どういう「原体験をさせるか?」という事であり、俺は、さっきも書いたとおり「親の問題」だと思う。

「予想した馬が1着だったからご褒美に美味しいもの食べよう!」

一見悪くない。

しかし、これは、「予想」が当たった事の延長線上に「報酬」が待っているかのように錯覚させる。

楽しんでいるだけなのに「何が悪いんですか?」という人も居るかもしれないが、このルーティンを短絡的に子供に刷り込むのは確かに危険で、子供の潜在意識におかしなタネを埋めてしまう可能性がある。

ギャンブルの何が悪いか?と聞かれりゃ、俺は何も悪くないと答える。
合法の範囲で運営されている公営ギャンブルである以上、何も悪く無い。

ただし、俺も色々なギャンブラーを見てきたし、様々な、依存症になりやすそうな人も見てきた。俺自身も危なかった事もある。もちろん、研究まではしていないから、記事執筆者ほどの知見は持ち合わせていないので、「知らない立場」として綴っているが、一つ重要な事が見落とされている気がしている。

シンプルに書くとすれば

「報酬を得る事に関しての価値基準」

という事。

俺が今まで接してきたギャンブラーたちを見ると、上記の基準が真っ二つに分かれる。そして、片方のタイプに「ギャンブル依存症予備軍」と言えるような人が多かった。

なので、俺は、この視点から今回の記事執筆者が書いた「子供に競馬の予想はリスク」という部分に関しての考え方と、具体的な予防法を書いておこうと思う。

報酬にはざっくり2種類ある。

報酬1=労働の対価としての報酬(一部の不労所得も含む)
報酬2=ギャンブル/投機などによって得られる報酬


この報酬に対しての価値観が「お金に色は無い」的に「1=2」的な価値基準の人と、ギャンブルで得た金はあくまで「水物」として「1>2」という価値基準の人。

この二つに大きく分かれていた。
ちなみに、「1<2」という人はほぼ居なかった。

「1<2」を実践できる、と思っているかいないかでいえば、ほとんどの人が博打でメシを食っていけるという認識は持っていないのである。逆にパチプロやプロ馬券師はほぼ依存症には陥らないレベルの強靭な精神力が必要な仕事であり、ある意味では、その時点で「ギャンブルでは無い」という位置づけである。

前段が長いのは、正確に伝えたいからなので、しばし、お付き合いを。

で、なぜこの「報酬を得る事に関しての価値基準」の話をしているか?

ここの価値基準の違いが、後に「依存症」になるかならないかの「一線」で、踏みとどまれるか、引きずり込まれるか、に大きく関わっているのではないか?という俺の仮説がある。

もちろん、科学的にデータを取った事では無い「感覚的」な話ではあるが、「ギャンブルに依存しやすい人」の一つの指標にはなるんじゃないかな?と思っている。

で、ざっくり書いた3つのタイプ分けの中で、どのタイプの人が依存症になりやすいかというと、「1=2」の人が多かった。俺個人の実体験でのデータで、対象は自分も含めて100人程度だから、このデータ自体バイアスが掛かってる恐れはあるが、実際そうだった。

なぜ、1=2の人が依存症に陥りやすいか?

結論から書くと、「労働への意欲が減少しやすくなる」から。
更にいえば「労働は金のため」という基準が強いと、さら危ない。

俺の「労働の定義」を書いておく。
青臭いし、理想論だと言う事も分かっているし、「誰もがそうはできないんです・・・」という意見が出る事も承知で、自分が少数派である事も理解した上で書くが、「労働=誰かを喜ばせる事」であり、その結果報酬を得られるものであると理解している。

つまりは、「金」のためではなく「人を喜ばせる」という原理原則を基に働かないと、モチベーションは簡単に崩壊する。口では金が欲しいから働く!と言っている若者の中でも、本質が分かっている人は、上司だけを見るのではなく、しっかり客を見ているし、世の中に「こういったものが必要でしょ」という、「誰かを喜ばせる事」が自然と目的になっている。

ここが、子供へのギャンブル教育の最初のレイヤーなんじゃないかと思ってる。

え?ギャンブルと報酬への価値基準なんてカンケー無いじゃん・・・とは言えないのだ。

さて、そろそろこの項目の本題に。

そもそもギャンブルから得られる報酬は「労働の対価としての報酬」ではない。

にもかかわらず、価値基準が「1=2」だと、ビギナーズラックなどで②を得た場合に、「月間300時間も働いて得た給料が30万円なのに、競馬で一瞬で20万円勝っちまったよ・・・。俺の労働力の価値なんて本当に低いよな、なんだか仕事すんのバカバカしいよな」という思考回路に陥る人が多かった。

つまり、「仕事=労働=人を喜ばせる事」だとすると、途中を端折れば「人を喜ばせる事」が馬鹿馬鹿しく思えてしまう・・・という事に危険が潜んでいる。

だからこそ、「親」の問題としたんだが、子供に何を教えるかは親によって様々だし伝え方も順番も無数にあると思う。

しかし、ギャンブルという側面をもつ「競馬」に触れさせるのであれば、触れさせる前段で「報酬を得る事の大前提」である「人を喜ばせる事の楽しさ」を親が教えてからでないと、子供の受け取り方次第では、別の着地点に誘ってしまう可能性がある事を、親は理解しておくべきだと思っている。

うちの子に限って・・・は通用しない。
ギャンブル依存症患者は確かに親もギャンブル依存症だったりする。
それを、俺は「遺伝」ではなく、親の育て方に起因して「価値観の醸成ができていないからなのでは無いか?」と考えている。

そこを親が教えられないんじゃないか?とね。

報酬をもらう事の原理原則・大前提は「誰かを喜ばせる事」だと思っている俺だが、最初のターゲットは母親だった。親の言いなりの良い子ちゃんになるという事ではなく、いかにサプライズを仕掛けて笑わせるか?というのが最初の俺の労働だったのでは無いか?と思う。ぶっちゃけ、今もそのときとほぼ変らない感情で仕事をしている。

だから、誰かが喜ぶのであれば、無報酬でもこんなコラムを書いたりしているバカ、それが俺。おそらく、この記事の執筆者も似たような人だと思う。

決して時間の無駄とも思わないし、苦労と思った事も無い。

その上で、本題。

上記してきたような、報酬に対しての価値基準が醸成されていない状態の子供に「労働ナシに=報酬がもらえる」という方程式が無意識下に刷り込まれると、そもそも、労働の本質や尊さに気が付くことができず、「ラクして楽しんで金儲け」という面だけが刷り込まれてしまう可能性は、ゼロでは無いということ。

確かに90%以上の人は大丈夫だろう。
ただ、誰もが陥る危険性はゼロでは無い。

大人になってからバカラや丁半博打などのシンプルな博打にハマり依存する人が特に多いのは、そこに「思考」「推量」が介在しないケースの方が圧倒的に多く、何らかしらの「労働」「労力」と言える行動が伴わないからではないか?と考えているし、そういう意味では、馬券は「思考」「推量」が必要なギャンブルである事からバカラやパチンコほど依存症を産む危険性は少ないのかもしれないが、馬券を買う行為自体は「思考」「推量」をしなくとも、できる。

つまり、賭ける行為自体は「ラク」なのである。

そして、ビギナーズラックも含めて、「ラクに報酬」が得られるケースがある。
パチンコ、カジノ、は特にそうかもしれないね。

つまり子供に限らず、思考停止状態で馬券を買う人はおのずと依存症に掛かり安い下地を作っているのでは無いかと推察できる。

それが、脳が発達期であり、思考力がソコまで発達していない子供ならなおさら。
この記事の執筆者は「リスク」があると言っているが、なにが「リスク」なのかは書いて無いし、依存症になっていない我々には分からない。

だからこそ、この記事執筆者の言っている事が伝わりにくいのではないか?

と仮設を立て、ではリスクがあるとすればどこだ?と考え導いたのがこの項の話。

「競馬が悪い」「ギャンブルが悪い」という雑な意見ではなく、

「労働の対価では無い報酬」への興味を、「報酬=労働の対価=人を喜ばせる事」という基本的な価値基準が"醸成される前"に体感させてしまう事にはリスクがありますよ

と言ってくれれば、それはそうだろうね、と、俺も同感である。

だから、今回の問題を提起するなら「親御さん気をつけてね!」そして、「NHKさん、そういう事をちゃんと伝えてね!」と言えばいいだけじゃね?という事。

依存症の会の相談者はご家族が多いだろうし、既に発症してしまった後に、そのご家族を責める事もできないだろうから、その辺りの根本的な話は抜け落ちちまってるのかもしれないし、敢えて抜いているのかもしれないが、ギャンブルの話というよりも、もっと根が深い話なんだと思うんだけどね、俺。

それを、「子供に予想させるなんてけしからん!」そんなものをTVで放映し増長させる行為をしているNHKの見識を疑う!って言ってるんだけど、なんか、論点ズレてない?という気がする。

◆報酬は労働の対価である事=人を喜ばせる事

まずは、ここを徹底的に教えていないのであれば、ギャンブルを内包する競馬を通じて何かを体験させる事など100年早いと思う。ソコより先に教える事アルだろうよ!とね。

その順番を勘違いした親が

「労働の対価である報酬<ギャンブルでの報酬」

という不等号記号で表した「優先順位」を”悪気なく”刷り込んでしまう行為は、自分の子供を殺す行為と等しいかもしれないと思ったほうが良い。

「いえいえ、ちゃんと教えています!」という方。

そう、ほとんどの人はそう、ちゃんとやってると思う。
こういう事に反論する人は、ちゃんとやってる人が多い。

やって無い人は、逆に、この話題にすら気付いていないよね、きっと。

ただ、常に立ち止まって考えなければならないのは、”本当に自分は出来ているかな?”と自問するメタ視点を持つ事。自分の人生であればいいが、子供の人生。変に過保護に育てても意味は無いが、ミスリードもよくない。

子供の好奇心は恐ろしく、親がイメージしているのとは違う方向に暴走する事がある。その原体験を元に価値観が醸成されると「思った方向とは違う成長」という結果が生まれてしまう事は、確かに否定し得ない。

それが良い方に転ぶか、悪いほうに転ぶか、はその後の環境によっても大きく変る。

日本は多くの人が「自然」と「1>2」という価値基準を醸成しやすい国であると思っている。武士の魂からの話なのか、そういう民度の高さを持っている国なのか、素晴らしい国だと思っているが、環境によってはそれが醸成されないケースがある。

その、最初の環境のボスであるのが「親」じゃねーのか?と言う意見ね、俺。

何かの報酬を貰うというのは、そこには脳(アイデア等)か身体(肉体労働)かは別としても「労働」が発生するワケで、その根本は子供に教えるレベルであれば、「相手を喜ばせたいという思い」への対価であったりする事が「基本」なワケで、子育てをするなら「喜ばせるための努力」を子供に「楽しいものだ!」と思わせなければ「努力が楽しいもの」という感覚や、どうやったら喜ぶだろうか?という、「思考力」「想像力」は身に付かない。

よく、「子供のIQは母親の好奇心の強度に比例する」と言われる文献などを見るが、それが本当かどうかはおいといても、やはり、子供の価値観の醸成に親が大きく影響している事は間違いない。

この辺りを説明すると、長くなるが、つまりは、子供である以上「親」の考え方に左右される。

モンスターペアレント的な「過保護論」。
ただの「放任主義な考え方」。

そういうバイアスの掛かった極論ではなく、そもそも「人は人に喜ばれたい生き物である」という根源的欲求をもっている事を理解しなくてはならないと思っている。

その上で、親は、

「人に喜びを感じてもらうためにどうすればいいのか?」

という想像力を子供が醸成するための「最初の実験台」にならなければならないと思っている。

無論、この考え方も俺の主観だ。

正直、生きるってなんだ?という理由には辿り着かないが、仕事ってなんだ?と考えた時、どんな商売でも「誰かを喜ばせる」事が共通項だろうし、その成果として報酬をもらう事が原理原則なんだと思っている。

その事が体現できれば、人の笑顔に触れる事が出来る。
人の笑顔に触れていると、また喜ばせたいな・・・と思っちまうのは俺だけなのかもしれないが、俺はそう思っちまう。それが積み重なって、もっと長く生きたいな。と生きる理由にもなる。

その”労働”への意欲が低下するってのは、危険じゃねーか?ってこと。

だからこそ、そこをタフに生き抜いてもらうために、親も何が正しいか分からないまま、自分の経験則から子供に様々な教育をする。

子供には、労働と生存への感謝以外に、そうやすやすと報酬を与えるべきではない。

と俺は考えている。

生存への感謝=承認
アナタが生まれてくれたことで、如何に俺が幸せか!という、俺の話。俺が嬉しいから、誕生日を祝わせてくれ!という状況が一つ。

労働への感謝=言葉。
あとは、生きていく力を醸成するために、工夫力と想像力を醸成させるために、子供に何かをさせた時、子供が何かをしてくれたとき、「ありがとう」では終らせず、なぜ嬉しいか、なぜ感謝しているか、を徹底的に言葉にする。まぁ、話が長くて抱きつきながら話すから、スゲーうざがられたけどね・・・。

ただ、これが俺の子育ての前提。

勉強する事の楽しさは、別に国語数学理科社会でなくとも身に付けられる。それが競馬であっても同じだし、子供の好奇心の芽は摘みたくないし、どんな事でも、その結果得られる知識やその調べる過程での体験が子供の工夫力や思考力を育てると思っている。

つまり、遊びの中から得られる結果に対して、出来たからご褒美を渡したり、美味しいものなど食わす必要は無い。

その行為を通じて、知識が増えた事、そういう体験が出来た事、そういった事こそが「素晴らしい事」であるという価値基準を「醸成」させ、その価値基準を「どう横展開させるか?」という意識を親が持たねばならないと考えていた。その意識も技量も無い親は競馬に限らず、まぁどんな事でも子供をミスリードするだろうし、その全てをなんちゃら協会が是正できるワケでも無い。

だから、危険なものからは遠ざけて、接触させない?
無理無理。

法律があるから接しちゃ駄目。
ギャンブル依存症になるから接触させちゃ駄目。

無理無理。

そんな理由では、子供は納得しない。
子供の好奇心はハンパ無い。

親の目を盗んでやるだけ。
だから諦めろという話ではなく、だから遠ざけろという話でもない。

様々な事象には「メリットとデメリット」が内包されている。
そして、競馬に関していえば、積極的に接触させるべきコンテンツであるとすら俺は思っている。

ただし、上記したようなリスクが孕んでいる事に関して親が理解していないと、悲劇的な結末を生む可能性がある事・・・については、俺もこの執筆者と同意見である。

だから、競馬を通じ、人生を学んだり人生の糧にしている人。
だから、馬券を通じ、人生の理不尽を学んだり、判断する事の恐怖を乗り越えられた人。

その原体験をもし親にさせてもらったのであれば、「親に感謝」すべきだ。
考えなくてはならないのは、自分と子供は別の人間であるという事だし、自分が大丈夫だったからイコール「競馬は大丈夫ですよ!」等と軽く扱ってはならないと思う。

いつのまにか「1=2」の価値観になってしまう事もあるからね。

だからこそ、子供が居て、今競馬を楽しめている人は、

「競馬」と「馬券」は違う事。
「労働の対価としての報酬」と「ギャンブル(投機)の報酬」は違う事。

この2つを絶対的に理解していほしいし、「お金に色はついてない」などと子供に教えてはならないし、それを嬉しそうに話してもならない。と思う。

報酬=労働の対価=誰かを喜ばせる事、であるなら、誰かを喜ばせていないのに得る報酬はあくまで「一時のものであり、労働の対価で得た報酬と比べるものでは無い」という理解が出来ないと、労働への意欲が低下し易い大人になる可能性が高いよ。

「1=2」の価値観を持っている友人の親と数人飲んだ事あるけど、やはり、親もそういう基準の持ち主だったからね。教育って怖いよね。もちろん、良かれと思って教育してたわけだからね、その親御さんだって。

なので、俺は具体例として「人を喜ばせる事の楽しさ」を子供が分かっているなら、仕事の中に楽しみを見出せるだろうし、「1>2」の基準で考えられるんじゃないかな?と、思っている。

日本にギャンブルがある以上、そして、子供は基本的に親が育てている以上、競馬に携わる者であり、人の親である立場の人間は、こういう事を意識しておかないといけないんじゃないか?というお話だ。

だから、俺は競馬のプラスで生活が出来ようとも、「仕事は仕事」、投機的報酬がいくら入ろうとも、仕事を辞めるつもりは毛頭無いとも言い続けてきた。

まぁ、俺の話はいいや。
話を戻すが、子供は親が好きだろうから、親のリアクション一つでその子の人生が決まるといっても過言では無い。

何が言いたいか?
さっきから言っているように「親の問題である」と言いたい。

記事の執筆者は、NHKの見識と幼少期に競馬に触れることのリスクを大雑把に語っているが、そこの主眼の部分がちーと、俺には刺さらなかった。

ソコを俺なりに解釈してみたのが、今書いていること。

まぁ、俺は教育者でもねーし、なんでもねーけど、子供にどういう原体験をさせ、そこで何を感じさせるか?を誘導する事には徹底的に意識を傾けてきた。三つ子の魂100までじゃないが、非常に重要な体験をいくつもさせたと思っている。

勿論簡単では無い。
うわ、全然違う反応が返ってきた・・・
と言うケースもあった。

だから、子供を競馬場に連れて行く時なんかは、パドックなんて全く見ないし、この俺が馬券も買わない。

ずっと子供の挙動を観察している。

「できる事は、なぜ出来ているのか?」などと考えずに出来てしまうが、それは、さまざまな幼少期の原体験に起因している事も多い。それはまた逆に、「なぜ出来ないのか?」という点にも幼少期の原体験が作用しているケースも多い。

もし幼少期に競馬に触れさせるのであれば、「労働の対価以外にも報酬を得られる可能性」への羨望ではなく、知的好奇心を満たしてあげる事や、予測が外れたときの心情をどう整理するかなどを教えるために教材として使うべきである。その理不尽さをどう乗り越えるかは特に重要だよね。

教材としても非常に優れているのが競馬であると思っているが、小学校で足し算引き算から学ぶのと同様、順番は大事だと考える。

まずは親として子供にすべき事は「報酬=労働の対価=人を喜ばせる」という「基本形」を、親との生活体験の中から学ばせる事だと思うし、この基本形が分かっていれば、子供はきっと大丈夫。

無論「労働=強制的」というイメージを持たせるのではなく、「労働=人を喜ばせる事」であり、その結果「笑顔」なのか、「賞賛や立場」なのか、「お金」なのか、これらの「報酬が得られるという原理原則」を如何に楽しく考えさせるか?が親としての勤めなのでは無いかと思う次第だ。

そこがしっかり伝われば、子供は「勉強しろ!」等といわなくても、逆に「コイツ本当に俺の子か?」と思うくらい楽しそうに勉強する生き物だ。

そうなったらしめたもの、知識や体験自体が報酬として彼等の中に根付く。

ギャンブル依存症の件。

つまりは、競馬やギャンブルとは関係ないところに重要な要因が潜んでいると俺は考えている。

競馬はもちろん何も悪くない。
合法である以上馬券も悪くない。

ただし、今後も世の中にギャンブルがある以上、少なからず依存症罹患者は発生してしまうだろう。
それを、競馬は悪といってしまえば、延いては「経済活動は悪」とか、そういう所に論点が移行していく。

運動会で順位をつけない考え方と同じでしょ。
アホか・・・ってね。

だから、自分自身が大丈夫であっても、教え方を間違えると子供であろうが成人であろうが「依存症患者」は出ちまう可能性があるぞ!という可能性は否定してはならんと思う。そこは、人を競馬に巻き込んだり、その楽しさを知ってもらいたいと思っている俺としては、やはり考えとかなくちゃいけないことだと思ってる。


だから、ブログ執筆当時から

「俺の買い方は真似すんな」
「自分でしっかり考えろ」
「当たった儲かったかの基準じゃなく、楽しかったかどうかの基準で考えろ」

とまぁ、こんな事を偉そうに言い続けてきたわけだ。
その言動に共感してくれる人は、競馬依存にはなるかもしれないが、馬券依存にはならないと思っている。

その上で、「俺は競馬依存者だ!何が悪い!」と言いたい。


その前提にあるのが、「報酬は労働の対価として頂く」という事であり、労働の対価として頂く報酬は「自分の事だけでなく、多くのものを守るために非常に重要なもの」であるから、その領域の金をギャンブルには充てない、というルールも自ずと設定できる。

こうみえて、俺は「1>2」の価値基準だからね。

しかし、依存症患者はそこの「境界線が崩壊する病気」でしょ。
辛いと思うよ。

寺山修二の言を書く

賭博には人生では味わえない敗北の味がある

その敗北を乗り越えるためのには、その時に、社会に於いてどこまで承認された立場を持っているか?ってのが実は重要だったりする。

そのポジション、居場所が無いと、そもそも「誰かを喜ばせる場所が無い」という事になる。

「社会生活の中で承認欲求が満たされていないケース」

俺は、そっちの方が問題だと思う。

俺も正直に言えば、学生時代にそれに近い状況になった事あるからね。
怪我して、スポーツが出来なくなり、物凄い喪失感に見舞われた。

なにやっても楽しくねーし、本を読み漁るか、博打に逃げて頭の中真っ白にしてた。
麻雀→パチンコ→闇カジノ→闇ポーカー、時効だから言うが毎日そんな生活だったわ。
20歳頃かね。

自分自身よりも、親が辛そうだったな。
たった1年で、借金600万まで行ったし、毎日がんがん借金取りから連絡来るし、こりゃ、働かないと行かんね・・・と、喪失感よりも、焦燥感が勝った事がよかったかね。少々危ない橋も渡りながら、1年で借金完済したけど、そりゃ、大変だったわ苦笑

そういう意味じゃ、俺も、危なく博打で身を滅ぼすところだったけど、不幸中の幸い、そこから、仕事の面白さを味わえたことが、今に繋がってるし、その価値観のタネを埋めといてくれた親には、本当に感謝だわ。

そういう意味では、なにに対しても興味がわかないときは、危険だよね。
ギャンブルに限らず色々なものの「依存症」になる。

不安や喪失感、何をしても認められないとき・・・
辛いよね。もちろん、自分で切り抜けなきゃならないし、その状況に陥ったのは自業自得なんだけど、そこから抜け出すのはなかなかハードなんだよな。

俺はギャンブル依存症患者なんて作り出したくねーからな。

だから、コラムの中でも「仕事しなさい!」っていうし、「家族は大事にしなさい!」と、離婚経験者の俺が偉そうにのたまう。

競馬依存者は沢山作り出してーが、その違いがわからなけりゃ、間違った議論になっちまうし、競馬が悪みてーないわれかたしちまうからな。

それは、違うだろ!とはっきり言っておく。

ところで、博打で勝っている時のあの「恍惚感」って、俺はアドレナリン系の興奮物質かと思っていたんだけど、βエンドルフィン系の「沈静系物質」が脳内で放出されてるんだってね。間違ってたらすまんけど、俺が見た文献にはそう書いてあった。つまりは、「安心感」や「安堵感」を得たくて、ハマるわけ。

βエンドルフィンはモルヒネの7倍近い威力があるからね。

スポーツ。分かりやすい例で言うと「ランナーズハイ」とかも、βエンドルフィンが分泌されてる状態で、苦痛を和らげるために脳が勝手に分泌する。スポーツ選手に、博打にハマる人が多いのにはそういうのも関係しているのかね。試合前とかは不安との戦いだろうしね。まぁ、精神構造が弱い!と言っちまうのは簡単だが、脳が勝手にモルヒネの7倍近い物質を分泌させちまうから、そこにおぼれない様にするには、軸足をしっかりどこかに根ざしておかないと引きずり込まれちまうんだよね。

だからこそ、将来、せめて自分の子供がそういう状態にならないように、親がミスリードすんじゃねーぞ!ってこと。

その結果「競馬が悪」だなんて言われたらむかつくぞ!って話だ。

子供をもし連れて行くなら、親が馬券にのめりこむなんてのは言語道断だからな!子供の教育者として、自分は馬券買わずに素晴らしい原体験をさせてやってくれよ!ってこと。

子供が一人で競馬場に入る事は無い。
少なからず、誰かが連れて行っているはず。
連れて行く人は、その原体験にどういう影響を与えているかは、しっかり考慮すべきであるとおもう。

その上で、競馬場に子供連れで来る家族が増えてくれることは、最高に嬉しい。

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4.NHKとしてのモラルの基準
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っていうか、この記事の執筆者はなぜNHKに謝らせようとしているのかな。
まぁ、確かに揚げ足を取られるような内容ではあるが、謝罪?

誰に?視聴者に?

っていうか、競馬と馬券を混同している「雑な人」に謝るの?

変じゃね?

俺は、自分の子供を小さい時から競馬場にも連れて行ってるけど、上記2.3の項で書いた事は徹底的に刷り込んできた。だから、今でも人を喜ばそうとすることが大好きな明るい青年に育ってくれている。もちろん、ここからギャンブル依存症に罹患する可能性はゼロでは無いが、それはギャンブルが原因ではなく、人に対して絶望を覚えたり、なにかの挫折を味わい、そこを因として、副次的にギャンブルに依存してしまう事の可能性のほうが高いと考える。

つまり、ギャンブルが悪いのではなく「孤独」「失望」が因で、たまたまその時に「ギャンブル」があったって事じゃね?とね。

勿論、これも俺の主観であり、俺の経験則というバイアスがかかった主張だから、正否を語っている訳じゃないことは前提だが、つまりは、ギャンブルは常に目の前にあるが、まずは、それ以外の孤立や孤独、不安を取り除かなければ、依存への予防にはならないでしょ。ってこと。

ギャンブルによって得られる脳内物質の強力さは、なかなか他の喜びで代替させるのは難しかったりするし、仕事とかだって、そんな簡単に人に褒められるような状況も作り出せないからね。

依存症になっちまったら、ぶっちゃけ、本当に大変だとおもう。
こういった話は、通用しないからね。

そういう意味でも、国営に近い「NHK」が無配慮に「子供」の映像を使った事は、その苦労をよく知っている立場の人=執筆者から見れば、「手が震えるほどの怒り」になるというのも頷ける。

だからこそ、性教育とギャンブル教育は難しいんだろうね。

どちらにも、子供の根本的な価値観の中に「相手が喜ぶと自分も嬉しい」という基軸がしっかり醸成された状況で「性」や「ギャンブル」に接しないと、間違った結果に行き着いてしまうケースがあるということ。

そこの基礎を教えるのは親の役目だよね。
スゲー難しいけどね。

「言った」と「伝えた」は違うだろうし、「聞いた」と「分かった」も違うし、「分かった」と「出きる」も違う。大変だよね。大変なんだけど、子供作った以上、最低限の基礎だけは伝えたいよね。

俺は、馬券を外しても「一切謝るつもりがない」と今までも明言してきたが、外れて競馬がつまらなくなったり、人を憎たらしく思うようなタイプの人は少し危険だからね。「コイツ予想外れたのに謝りもしねーよ。もう馬券なんてヤメた!」と思わせた方がいい。つまり、俺が謝らないのは、馬券で負けて身を滅ぼす人を作りたくないという理由もある。

また、「金払ってんだから俺が客!お前はいうこと聞け!」とか、「俺が今までいくら使ったと思ってんだ!」という態度で飲んでるヤツとか、「お客様は神様です」を逆手にとって横暴な振る舞いをするヤツが「嫌い」なわけ。

滅多に嫌いとか言わない俺でも、嫌いな事があるわけ。

特に競馬のコンテンツの価値=「馬券の当たり外れ」だけ、となると、まるで不良品でも売ったかのような扱いされるからね。前提どこ行った?って話は、先週の無料イベントのコーナーで長々と書かせてもらったが、馬券外れた事をネチネチ指摘してくるヤツって、俺の感性とは全く合わないばかりか、やはり依存症になりやすい可能性があるんだわ。

俺は、馬券じゃなくて競馬を楽しんでるの!

「え?当たって外れて一喜一憂してるんだから、馬券を楽しんでるんじゃないの?」と思ってる人がもし多いなら、コラム書くのやめるわ。ブログ時代から5年以上書いて来て、そんなアホしか、寄ってこないのなら意味ねーしな。

まぁ、そんな人がカリスマの読者にはほぼいない事は先週も書いたけど、初めて読みに来た時に「なんじゃコイツムカつく!」と、直ぐに感じてもらえるようには、書いてる訳。

読者さんに無駄な時間使わせたくないからね。
読者さんを依存症にさせるわけにはいかないからね。

一応、俺流の思いやりね。

話は脱線したが、この執筆者は必死でギャンブル依存症患者と向き合ってるのだな、という事は凄く理解できる。ただし、今回のNHKの放映に難癖つけたこの記事は、ちーと、バランス欠いてる気もするし、論点が伝わらないと、仲間に引き込まないといけない人を敵にまわすことになる事もあるよね・・・っていう、教訓が得られた。

そういう意味では、前提理解の「齟齬」が、NHKと記事の執筆者の間にはあるだろうし、それが「見識」だと言われれば、公共の電波を扱うものとしては、NHKにも落ち度があったのかもしれないね。

ただ、「誰に謝るのか?」という事は、もう少し、ハッキリさせてもいいだろうし、それよりも重要な事は「そういう映像を流さない」という事ではなくて、「そういう映像に感化されないように子育てする」という事なわけだから、是非、俺も目からウロコ!と思えるような「ギャンブル依存症に引きずり込まれないための子育て論」とかを、この記事執筆者には書いて欲しいな~と思ったわけ。

逆に、そういう記事を「NHKさん!アナタ、これを特集しなさい!」って言った方がカッコいいのにね。そういう特集あったら俺も見たいし。

長々書いて来たが、この辺りの話はいつか書こうと思ってたから、今日書いてみたわ。

カリスマ読者の皆さんも、この記事の執筆者が書いている事を「ヒステリックな意見だな・・・」という感じだけで思考停止させずに、「競馬をより多くの人に愛してもらうため」にも、もし、子供が居るならば、そういう事を考えた上で、是非、競馬に接触させてあげて欲しいと、俺は思う。

また、周りにギャンブル依存症に陥った人が居て、その苦しさに直面した方にとっては「ギャンブル」に嫌悪感を抱いちまう事は理解できるが、ただし、「競技そのものには罪は無い」という事は理解して欲しいね。


競馬には馬券を抜きにしても沢山の魅力が詰まってますよ。
子供が触れても問題ないレベルのコンテンツだと思いますよ。

特に、サラブレッドの美しさと儚さ。
優勝劣敗の厳しさ。
勝てなければ殺されてしまうという現実。

報酬は人を喜ばせてはじめて頂けるものであるという原理原則。

その前提を理解した上での、一服のビタミン剤みたいなものがギャンブルであること。

そして、しっかり守るものを守った上で、競馬とともにある人生もそれほど悪くないよ!という事を一緒に体現してくれる仲間がカリスマの仲間だと思ってる。

今後もよろしく頼みたい。
7号